スキルスからの生還

闘病記

 

前書き1(2010年筆)
1991年にスキルス胃ガンで胃を全摘したときの闘病記です。
この日進月歩の世の中で、20年近くも昔の闘病記は、医学的にはまったく無効だと思います。(第一、医学情報は殆ど書いてないし)
ただ、反対に、癌でも、スキルスでも生きている、という証明にはなると思います。
そのために、この記録を公表し続けたいと思います。
基本的には、手術から7年ほど過ぎたときに、知人の闘病記サイトに載せていただくためにまとめたものが中心になっています。

 

前書き2(1998年筆)
 日付のあるものは、その時々にリアルタイムで書いた日記から抜粋したものです。その他は、現在、手術から約7年半が経過した時点で書いたものです。 
 日記の方は、妙に文学的だったり、ヘタクソな短歌があったりして、恥ずかしいのですが、その時々の正直な気持ちとしてあえてそのままにしました。
 また、手術前は、癌であることを告知されておらず、胃潰瘍と自分では思っていました。
 そのせいもあって、この頃の日記は非常にのんきなもので、病院食と間食と、毎日何を食べたかが、事細かに書いてあります。病院食の方は削りましたが、間食の記述方は、手術前に食欲があったということを知っていただくため、一部残しました。


手術まで(日記を中心に)

 

 《入院、手術までの経過》


 1990年、4月15日、激しい腹痛で地元の日赤病院に駆け込む。
 だが、通り一遍の診察と、痛み止め、化膿止めの注射だけで、うちに帰された。
 誤診云々は言いたくないが、この病院の態度は、医者、看護婦ともに最低だった。
 医師は注射をぞんざいに打つと、まだ苦しんでいるわたしをおいて診察室を出てゆき、看護婦は廊下で吐いているわたしを横目に素通りしていった。

 ともかく、その後一年ほどは無事に過ごす。

 以下の日記にあるように、旅行中、激しい腹痛があり、かなり嘔吐した。うちに帰った次の日、母のアドバイスに従い、食事をとらずに直接G病院へいく。内科で症状を話した後、胃のレントゲンを撮った。何枚も何枚も角度を変えて撮影した。わたしの次の人は、わたしが服を着ている間に、4枚ほど撮影してすぐ終わってしまった。あれ?と思う。
 そして、「これを今から内科に持って行くから、明日また来てください」と技師さんが足早に去っていった。

 次の日内科に行くと、「かなりひどい胃潰瘍です」とのこと、そのまま外科に回される。外科では院長の診察を受け、入院の説明をするからまた明日と言われる。その時、院長から、「あなたは一人っ子なの?じゃあ、がんばらないとね……」とじーっと目を見つめて言われ、またまた不安になる。
 そのまた次の日、今度は母と一緒に、外科のO先生から入院の説明を受ける。順番が回ってきたら電話します、と話が終わりかけたとき、看護婦さんがやってきて「入院予定の~さんと連絡がとれません」と言った。O先生、こちらを向いて、「じゃあ、明日入院しますか」とあっさり言う。
 かくして、旅行から帰って4日目には入院という、電光石火の早業となった。

 

《入院してからの日記》
《入院してからの日記》


2月28日

 久々の日記である。今年に入ってからは手帳に、その日あったことを書くようにしている。それが、胃潰瘍で入院ということになって、暇だから日記を書くことにした。2月19日から23日まで四国へ家族旅行をした。その時、22日高松で苦しくなった。これまでも何回かこういうことがあったので、G病院で検査をしてもらったら胃潰瘍とわかった。他にも腸がおかしいかもしれない。
 胃潰瘍なんて、もっと神経の細い人がなる者と思っていた。
 苦しいのさえ治れば、食欲もあるし、全く普通とかわりはない。全く不思議だ。
 部屋は北棟4階。6人部屋。乳ガンの人が多いみたいだ。窓際のベッドなので、外が見られてうれしい。
 昼食。さすがに少し少な目。早速売店で、アーモンドミルクとストロベリーヨーグルトドリンクと、ウエハースを買い込んできた。
 4時半に夕食。この時間にこの量ではすぐにお腹がすいてしまう。
 PM6:00 さっき担当の先生がいらした。「ご飯食べられましたか?頑張って食べましょう」と言われた。まさか足りませんでした、とは言えなかった。同室の人に、バームクーヘンとマーブルケーキ二切れをもらってしまった。
 PM8:10 
 さっき主治医の若い方の先生が話を聞きに来た。ナースステーションで話をした。これからは違うだろうけど、その都度違う先生なので、何度同じ話をしたか分からない。うんざり。
 わたしの潰瘍はけっこう悪いらしい。出血する寸前だと言われた。食欲もあるし、痛くもないのに、全くもって不思議。
 直腸の内診もした。この検査をすると惨めな気分で泣きたくなる。

 3月1日

 AM5:15
 起こされる。明日の5:00まで24時間尿をためて検査をするのです。
 AM6:00起床。 でも、前にトイレに起こされてから眠っていなかった。随分早いが、PM9:00消灯だから、九時間も寝てるんだ。ホームシックにもならず、ぐっすりねた。寝付きは少し悪かったけど、大体いつもとそうだし、変なことを考えて神経性胃炎になるのもバカらしいので、何も考えないようにしている。治った頃には脳味噌がとろけているかもしれない。今朝は菓子パンをもらってしまった。胃で入院したのに、食べ物をもらいまくっているなんて変だ。
 AM8:10 たった今、雛あられをもらってしまった。肥って帰る気がする。
 PM12:00 さっきまで検査を山ほどやった。血液 レントゲン(胸、骨)心電図
いっぺんに言ってくれればいいのに、検査から帰ってくると「はい次」っていうかんじで落ち着く間がない。しかも看護婦さん同士の連絡が良くないのか、そのたびに病室を探しまわるものだから、同室の人に心配されてしまった。わたしはちゃんと言われたことをしていたのに。
 PM2:30 お風呂に入った。その後、週一度のほんの貸し出しがあるので、6階まで行って『同級生』を借りてきた。こういう機械に本を読もうといっぱい持ってきて、家にも山とつんであって、お母さんに順繰りに持ってきてと頼んである。でも、ちっとも読む気がしなくて、まだ一冊も終わっていない。
 6:00過ぎにお母さんが来た。ふたりで、わたしは菓子パン、母はマドレーヌをむしゃむしゃやっている所に回診が来た。その上、「食事が足りないって、この子が行ってるんですけど」とお母さんが言ってしまったので、はずかしかった。
  土日の外泊許可が出た。うれしいけど、なんのためにこんなに早く入院したのか分からない。明日は、サークルの合宿の見送りに行く。

(7年後の補足 
 土曜日、上野駅から夜行電車で出発する仲間を見送るために、わたしは3時過ぎ頃病院を出た。まだ、間があるので池袋駅で途中下車し、フックセンターによった。「クレブス」という言葉を調べようと思ったのだ。
 この日の朝、回診の時、医師の一人がわたしを示して「クレブス?」と、他の医師に聞いていた。これが自分の病名で、おそらく「癌」か「潰瘍」かのドイツ語だろうと思った。
 まず、独和辞典を引く。ところが、クレブスの「ク」がCなのかKなのかわからない。「ブ」もBかVかわからない。適当にページをめくってもまるで分からないので、あきらめようとしたとき、別のやり方を思いついた。今度は和独辞典を取り、「癌」を引いてみた。一発で「クレブス」が出てきた。
 同室の人たちがよく「ガーン」などと、冗談混じりに癌と告知されたときのことを話すが、このときのわたしもまさにそれで、目がくらんだようになり、床がゆがんで見えた。
 どうしよう、こんな状態でサークルの人たちには会えない、そう思った。ところが、ここからがわたしの楽天的なところで、ふらふらと駅に向かって歩いているとき、質問された医師の答えを聞いていなかったことに気付いた。
 そうだ、きっとあの先生は「ううん」と首を振ったのだ。
「クレブス?」「ううん」そうだ、これだ。
 それから、「クレブス?」「ううん」「クレブス?」「ううん」と、頭の中で調子をとりながら歩いて行き、無事に仲間の見送りを果たしたのだった。)

 3月2日
 AM10:00ごろ、院長先生の回診があった。院長先生と外来に出ていない先生方が見回りに来る。『白い巨塔』みたいだなあと楽しみにしていた。もっとも、『白い巨塔』ほどさっそうとはしていない。でもわたしは入ったばかりのせいかきちんと見てくれた。
 家に電話したら、お雛様を飾ってくれているという。うれしい。桃の花を買って帰ろう。
 また血を採られた。いっぺんに言ってくれればいいのに、ちょびちょび何度も取るんだもん。

 3月4日 (月)
 2泊の外泊も終わり、再び病院に戻ってきた。家にいると入院生活が夢のように思われる。わたしの体のどこが悪いというのだろう。土曜日はサークルの見送りにも行って来たし。昨日などはコース料理を食べに行ってしまった。
 明日は腹部のCTと胃カメラがある。前から見ても横から見ても同じ大きさの看護婦さんが説明に来た。「胃カメラは苦しいけど、緊張すればするほど苦しいから、どーんと入れるなら入れってと、かまえていなさい」と言う。ドラム缶のような体型に何となくぴったりで、検査を恐れるより先におかしくなってしまった。

3月5日(火)
 AM8:30 今日は検査があるので朝から水一杯飲んでいない。
 9:45 回診。今日はしごく簡単。
 さっきCTを撮った。CT事態は機械にはいるだけで何ということもないが、増血剤を点滴して、それが手の甲だったから痛かった。まったく、これから何回注射して、何回点滴するかと思うと、ウンザリする。
 PM2:10 今日初めての食事。
 10:30頃、胃カメラをやった。おそろしく苦しかった。割合気楽に行ったらとんでもなかった。お腹は別に大した感覚もないけれど、喉の方が苦しかった。涎がたらたら出た。でも一回、お腹が苦しくなった。何かつかむものがないかと身もだえして息が荒くなった。ゲエーっとやったら、フッと楽になった。何度もゲエーっとものすごい音がした。もちろん吐くものなんか何にもないから音だけ。終わってから管を抜いたら、透明な糸がながーくひいた。あんまり透明で長く太いものだから、検査の管の一本かと思ってさわったら、何の感じもなかったけれど、指の間でねばって、わたしの体から出たものだとわかった。
 胃カメラなんてもう二度と飲みたくない。それくらいなら腹を開けてもらう方がましな気がする。
 さすがに疲れて昼寝した。
PM4:15 大学のMさんとTさんの二人が見舞いに来てくれて、さっき帰った。お花とCD、漫画本持参。食欲があると知ると、今度は食べ物をもってきてくれるという。タイに一緒に行った人たちは、わたしが胃を壊したと知ると、やはりびっくりしたらしい。「鉄壁の胃袋」「胃が4つある女」とまで言われたわたしがと思うと恥ずかしい。
 K先輩がTさんにいったという言葉がおかしかった。
胃潰瘍になるほど繊細というのか、こんなになるまで気付かないなんて鈍いというのか」 5:10 夕食から検査準備食である。

3月6日(水)
 昨日の胃カメラはさすがのわたしをもしょげさせて怖じ気づかせた。これからのことを思うと寝る前に少し涙が出た。そうは言っても、昨晩は今まで以上にぐっすり寝た。大抵5:00くらいに目が覚めるけど、今日は朝(6:00)までぐっすり。
 7:30 11:30 検査準備食。思ったほど悪くない。
 12:00同室のYさんが手術から戻ってきた。やっぱり少し恐い。
 3:25 さっき地下のコインランドリーへ行った。場所が悪いと聞いていたので、どんなところかと思ったら、なんと霊安室のそばだった。
 7:00 検査準備食 くず湯 カルピス 桃ジュース 麩の入った澄まし汁 
水分はっかり。これでもつのだろうか。下剤を飲んだ。眠れるといいけど。

 3月7日 (木)
 ゆうべは3回ほどトイレに行った。今日も座薬を入れてから一回行った。4回ともほとんど水のようなものが出た。宿便でも取れるかと思ったけどそうでもない。体重もちっとも変わらない。イマイチつまらない。座薬は同年代の看護婦さんにやってもらうのはイヤだったので、自分でやった。少し怖かったけどするりと入った。
 腸部レントゲンが終わってようやく昼食。
 腸部レントゲンはジャイロ室でやった。ジャイロというのが何のことかはわからないけれど、人の身体をいろいろな方向から撮せるレントゲンがある。レントゲンが動くのではなく、こちらの身体が動くのだ。台にマジックテープの帯でぐるぐる縛りつけられて、真っ逆様以外のあらゆる向きに動かされる。さすがに逆さまの姿勢で、頭の上に床が見えたときには怖かったけど、あとはおもしろいくらいだった。おしりに管を入れて、そこから空気やバリウムを腸の中に入れる。わたしはよかったけれど、身体をぐるぐるやれれるのに耐えきれなくて、終わった後、トイレに行く前にバリウムを出してしまう人もいるそうだ。全く病院というところはプライドなど捨てないといられない。
 腸に空気が入っているせいか、トイレに幾たびにバカみたいにガスが出る。
 PM6:00 さっき体重計に乗ったらなんと太っていた。まあ、やせるはずもないけれど、太ることもないではないか。それでも胃が縮んできたのか、あまりお腹はすかない。もっとも、間食は相変わらずしているけど。
 さっきM先生が来て、腸の方は異状なしだったと言った。悪いとしたら直腸らしかったから、下手したら人工肛門にはってしまうのではないかと思ってしまっていた。良かった。良かった。

 3月8日 (金)
 今日は何も検査はないようだ。ずっと部屋にいてバカみたい。
 夕方、M、N S先輩がお見舞いに来てくれた。今日、卒業生の成績発表で、その帰りに寄ってくれたらしい。皆さん卒業できたそうだ。元気だねえ、と驚いていた。

 3月9日 (土)
 今日はまた胃カメラを飲んだ。前回と比べたらずっと楽に飲めた。でも、時間が長かったのでやっぱりつらかった。時々看護婦さんが、背中をさすってくれた。これで苦しい検査は終わりかと思うとうれしい。

 3月11日 (月)
 今朝病院に戻ってきた。今日は腹部エコーの検査があった。
 腹部エコーは尿をためて検査するのに、なかなかたまらなくて2:00すぎまで食事がとれなかった。一度11:00くらいにもういいかな、と思って行ったら、ちょっとエコーをあてて「まだ、ダメ。夕方までかかってもいいからしっかりためて」といわれた。
エコーは婦人科の検査みたいで、卵管がどうの、血管がどうのといっていたけれど、結局異状なしだった。

   3月12日 (火)
 今日も検査で朝食止め。
 胃のレントゲンを撮るというから、楽だと思って気楽に行ったら、バリウムを直接胃に入れるので、また、のどに麻酔して、ゴム管を入れられた。カメラの時にはいくらゲーとやっても関係ないけど、今回は下手するとバリウムが出てしまうし、体の向きを変えなければならないので、ひどく苦しかった。それでも、2回ほど戻してしまった。
 11時すぎに、立て続けに朝食と昼食が来る。朝食はおかずだけ食べる。おなかいーっぱい。
 検査前はともかくとして、今日は一日中お腹にものが入っているような気がする。余計な物はなにも食べていないのに。今日はやたらねむい。文字通り、くっちゃねの一日。

 3月13日 (水)
 久しぶりに定刻に朝食が食べられた。満腹になる。やはり胃が縮んだのかしら。
 これから毎日下剤を掛けられる。さすがにうんざりする。ぢになっちゃうよー
 コインランドリーに行って洗濯。地下2階までの行き帰りはいい運動になる。
 さっき、抹茶アイスを食べた。おいしかった。
 PM3:30 今日は入院してから初めてというくらい、気持ちが沈んでいる。一つには、明日婦人科の検査があると言うこと。エコーで少し不審な点があったという。どういう検査か分からないけれど、多分内診だと思う。
 もう一つは、同じサークルのK先輩とA先輩がお見舞いに来てくれないこと。それぞれ都合もあるのだし、仕方がないとは思うものの、下手するともう会えなくなってしまうから、とても寂しい。
 夕食。親のかたきに対するみたいに、箸でやっつけて、むしゃむしゃ食べたら、少し元気になった。

 3月14日 (木)
 昨日、夕方6時頃、K先輩、A先輩、RちゃんTちゃんがお見舞いに来てくれた。すっかり、ウツになっていたところだから助かった。卒業生への寄せ書きも渡せたし。K先輩はマンガをどっさりもってきてくれた。

 3月15日 (金)
 昨日は婦人科の検査でショックを受けて、日記を書かなかった。検査の内容は予想通りで、覚悟して行ったのに、パニックというか、逆上してしまった。結局、内診ではわからなくて、CTを今日することになった。それなら最初からCTにしてくれればいいのに。
(7年後の補足
 婦人科の検査の時、わたしを押さえていた年輩の看護婦さんが、わたしと同じくらいに顔をぐしゃぐしゃにして泣いていたのが印象に残っている。 
 この日、母に「もしこの先婦人科系の病気になったら、病院になんか行かず、旅行でもなんでも好きなことをして、いよいよとなったらビルから飛び降りる」と言い、ひどく心配させる。まあ、発作的反応です。)

 3月16日 (土)
 昨日はCTで、
(7年後の補足
 ここで日記は途切れ、退院後の7月27日まで、何の記録もつけなかった。
そこで、ここからは、心に残っていることを書いてゆく。

 *手術を前に、食事制限が始まった頃の夜、もう母が帰ってしまった頃、Mさんが病室にやって来た。わたしよりは年上だがまだ若い女性で、28,9歳だったと思う。わたしと同じ病気で、主治医もおなじ、N先生とM先生だという。「あなたより若い人が頑張っているのですよ」というようなことを聴いて、訪ねてきてくれたらしい。
 Mさんはすでに手術を終えていた。手術の時、お花畑を散歩している夢を見て、だから、手術が終わって起こされたとき、思わず「ニコッ」と笑ってしまったと言う。自分の時にはどんな夢をみるだろうかと、思った。
 *手術の前日17日に、M先生から手術について説明を受ける。胃は全滴になること。胃の代わりに、小腸を二股にしてつなぐこと。そして、ずっと調べてきた卵巣は、結局、よくわからなかったので、開けてみて悪いようなら摘出すること。そんな話だった。
 卵巣についてわたし自身の感想は、「結局そうなったか。どうせなら最初から、そうしてくれてたら楽だったのに」というものが、両親にはかなりショックだったようだ。両親のうちどちらのものか分からないが、後ろから肩に手がおかれて、その手が随分ふるえていた。
「ちょっと、やめてよ、せっかく人が冷静に聞いているのに」というはなはだ不人情なことを思う。
 ちょっと考えれば、胃潰瘍で卵巣をとるわけはないのだが、病気については、感情も、思考もある意味で麻痺させていたから、それ以上深く考えることはないのだった。
 その日の午後、大学の後輩が見舞いに来てくれ、その時も、「腸を二股にしてつけるんだって、人の身体っておもしろいね」などと言って笑っていた。

 

手術と手術後のこと


 3月18日
 手術。9:20からの予定。9時頃、病室を出る。手術着に着替え、肩に予備麻酔の注射をすると、すぐに眠くなった。同室の、若いお母さんも乳ガンの手術のために、同時にストレッチャーで運ばれる。
 病室を出るとき、その人に「頑張りましょうね」と声を掛けたのが、妙に大きく響いて、少し決まり悪くなる。廊下を運ばれる間にも、また、眠ってしまう。
 手術室についた段階で再び起こされる。麻酔科の先生方がいて、N先生もM先生も、まだいない。
 自分で手術台にはい上がるのだ。これには、びっくり。そして、術後の麻酔用に、背骨のところに針を刺すために、膝を抱えて丸くなる。予備麻酔のせいか、ほとんど痛くない。 噂通り、手術中のBGMについて聞かれる。「こぶしの利いたのとか、クラシックはだめよ。先生、変なところに力が入っちゃうから」とは、病室の噂。
 音楽についてくわしくないので、ポピュラー音楽、とあいまいなことを言うと、ハワイアンがかかる。これじゃあんまりだよね、と麻酔科の先生が言って、取り替えたのはリチャード・クレイダーマン風の音楽だった。リチャード・クレイダーマ
ンきらいだなあ、と思う。  それから、麻酔用のマスクを鼻にあてがわれて、「名前を呼びますから返事して下さい」と言われる。「三浦さん」「はい」「三浦さん」「はい」。三回目に呼ばれたとき、「ああ、どうしよう、麻酔がきかない」と、明瞭に思った。
 そして、四回目に名前を呼ばれたときには、手術は終わっていた。三回目の「三浦さん」と四回目の「三浦さん」の間に、主観的には髪の毛一本の隙間もなかった。どんな夢を見るのかと思っていたのに、拍子抜け。
 ともあれ、名前を呼ばれて目を開けてみると、ライトの消えた手術灯が頭の上にあった。これにも驚いた。
 イメージでは、目が覚めると、親が「ああ、やっと目が覚めたか、もう三日たっているんだよ」と言う、そんなことになると思っていたのだ。(三日は大げさだが)
 外科の両先生はもういなくなっていて、麻酔科の先生と看護婦さんがいる。ちゃんと目が覚めたことを確認すると、身体の下のシーツをみんなでつかんで、えいやっ、とわたしを手術台からベッドに移した。これにもびっくり、なんて原始的なんだ。
 手術室を出るかでないかのうちに、眠ってしまう。リカバリー(回復室)に入って、両親の顔を見たはずだが、これもよく覚えていない。
 ただ、「卵巣はどうなった?」と聞いたことは覚えている。「大丈夫、切ってないよ」との返事。ああ、やっぱり自分は卵巣のことを気にしていたのだな、そんなことを思いながら眠ってしまった。
 麻酔が切れてきた頃、これから痛くなる、痛くなると、怖くなり麻酔をもらう。本当に痛かったのかは、次の日には記憶から抜けていて、M先生に「昨日は痛かったみたいだね」と言われたときは恥ずかしかった。よほど騒いだのだろう。もう一つ、寒い、寒いとも、騒いで、これはよく覚えている。湯たんぽをいくつも入れてもらい、今度は暑いと騒ぐ羽目になった。
 だが、それもこれも夢うつつ、腕にまいた自動血圧計が定期的に締まって、時折目が覚めた。

 3月19日
 夕方?回診に来たM先生に「今日は起きた?」と聞かれびっくり。昨日手術したばかりなのに、と思う。先生がいなくなってから、両側の手すりをつかみ、一気に起き上がろうとした。身体が半分起き上がったくらいのとき、頭蓋骨の内側で脳味噌だけが、ぐるんと、一回転した。
 それくらいすごいめまいがして、ベッドに倒れ込む。
 後で聞いたところでは、要は身体が起き上がっていればいいのであって、別に自力で起きる必要はないのだった。つまり、ハンドルを回してもらってベッドを起き上がらせればいいだけの話。それならそうと言ってくれなくちゃ。

 よくスパゲティー症候群などというけれど、このときの私も管だらけだった。まず、高カロリーの輸液を24時間少しずつ入れるための中心静脈点滴。これは鎖骨の少し下に点滴の管が入れっぱなしになっている。それから導尿管。背骨に刺した麻酔の管。左右の鼻には、酸素の管と、おなかの中まで続いている、分泌物などを吸い出す管。そして、身体の外にはそれほど出ていないものの、やはり手術した腸に(胃はもうないから)分泌物などがたまらないようにするための管が、おへそのあたりに、上から一本細いもの。それから脇腹の左右に一本ずつ直径1,5から2センチくらいの太くてひしゃげた管が入っていた。
 手術の準備で用意したものの中に紙おむつが入っていて、「うーんついにおむつか……」と思ったのだけれど、この紙おむつは胴の周りに巻いて、管からしみ出してくる分泌物を吸収させるためのものだった。それでも、最初の2,3日は、おむつでも吸収しきれないくらい分泌物が出て、ビニールシーツの敷いてあるベッドにまで、薄茶色い液が漏れてきた。

 19日か、20日に、大部屋の回復室に移る。
 今度も窓際だったが、窓のすぐ外に、古くすすけた建物があって、眺めはまるでよくない。
 こちらにきて、酸素の管がはずされた。短めの管が鼻の奥を刺激していて、これさえはずれれば楽になるのにと、ずっと思っていた。
 が、結局、もう一本残った管が、やっぱりのどを刺激して苦しいのだった。とくに、知らない間に飲み込んでいた痰が管に詰まると、途端に吐き気がしてくる。ナースコールを押して、看護婦さんにきてもらい、管を洗浄するとようやく楽になる。看護婦さんがなかなかきてくれない気がして、続けて2,3回押してしまうこともあった。ところが、元気になってみてから気づいたことだが、ナースコールを押してから看護婦が来るまでは、一分もない。その間に、2,3回押したとは、それだけ苦しかったのだろうし、また、我慢もなくなっていたのだろう。
 のどの管は本当に苦しくて、しゃべったり首を動かしたりするだけで、吐き気がした。同室の人たちは、若い私を珍しがっていろいろ話しかけてくれるのだが、一通り返事をし終わったときには、またナースコールを押すはめになってしまうのだった。

 ガスが出ると大丈夫というけれど、私はガスがでなくて苦しかった。内臓が減ったはずのおなかが、ぱんぱんに膨れる。2度ほど座薬を使った。
 また、ガスがたまらなくなってからだが、不思議なことに一日おきに少量の便が出た。点滴だけでなにも食べていないのにだ。食べ物だけが出てるわけじゃないのよね、と看護婦さんが言う。

   2,3日してからか、導尿管がはずされた。これからは自力でトイレに行かなければならない。ベッドから降りて立ってみると、腰が深く曲がる。痛いからではなく、本能的に傷口を守ってしまうようだ。いくら腰を伸ばそうとしても、くの字になる。手術前に、点滴台にすがりつくようにして歩いている人を見たが、自分もそうなってしまった。決して体重を預けているわけではないのだが、身体が曲がっているとどうしてもそう見える。
 ずっと、管で尿を垂れ流し(?)にするのに、慣れていたせいか、すぐトイレに行きたくなる。昼はまだいいのだが、夜など30分おきに行きたくなって困った。
 トイレに行くと、しばらくはじっと座っている。トイレの壁の人造大理石が、いろいろな模様に見えてくる。奥から二番目のトイレに、犬を抱いた女の子の姿がいつも見つけられるようになった。その子に、当時読んでいた『橋のない川』のヒロイン杉本まちえちゃんと名前をつけた。
 とりあえず少し我慢して、1時間おきに30分かけてトイレに行っては、「杉本まちえちゃん」とにらめっこする毎晩。すっかり不眠症

 重湯が始まった頃、39度すぎの熱が出た。眠れない夜の暇つぶしに、ナースステーションまで熱冷ましの座薬をもらいにいったりしていたが、そのうち、薬で下げていないときはいつも高熱が出るようになった。
 MRSAに感染していたのだ。ただ、私は熱に強く、熱が出ているときでも本などを読んでいられたし、薬を使えばすぐ下がったので、この時点ではそれほど気にしていなかった。ただ、食事は中断し、点滴だけに戻ってしまった。

 このころ、自分が癌であることを知った。ある日、院長先生が海外の研究員を案内してきた。私のベッドの前で、立ち止まると、「ベリー・ヤング・ガール。トゥエンティワン・ストマック・キャンサー」と見事な(?)カタカナ英語で言ったのだ。
 やっぱり、と思った。そして、これまで「この病院の患者さんたちはみんな明るいよ、今は癌と言っても結構平気なんだね」などと周囲に言ってきたから、自分がそうだとなったからといって、じたばたできない、そう思った。
 たぶん、心の奥底ではもうずっとわかっていたのだと思う。それでも、無意識にせよ覚悟ができてから病名を知ることができたのは幸いだった。
 熱も下がらない、不眠症も治らないまま、リカバリーを出て4階の病室に戻ることになる。荷物は助手さんと母が持ち、わたしは手に従姉が折ってくれた千羽鶴をぶら下げて、点滴を引き引き4階へ行く。入院した時と同じ部屋、410号室だ。患者は二度目の乳ガン手術したKさん以外、みな入れ替わっている。今度は、廊下側、洗面台の脇のベッドになった。窓際が空くまで待っててね、と言われる。年齢が下のせいか、やや、特別扱いをしてもらっている。
 でも、この洗面台の脇のベッドは、椅子に座ったまま顔が洗えるという利点があり、すぐに気に入ってしまった。不眠症の方は、病室を移ってすぐ、一度睡眠薬(座薬)をもらったら、眠り方を思い出したのか、またよく眠れるようになった。
 ただ、鎖骨の下に入れた点滴の管から細菌感染した可能性があると、管を抜いてしまっていたため、毎日大量の点滴を腕から入れなければならなくなった。本来なら24時間かけて少しずつ入れるはずの点滴を、朝夕二回にわけてするのだから、かなりな長時間になる。特に夜は、点滴台に大小の袋やら瓶やらがぶら下がり、消灯後、一時間近く経たないと終わらなかった。ふざけて「フルコース」と呼んでいた程の量だったのだ。
 手術後は、毎日レントゲンを撮った。リカバリーにいた頃は、病室に移動式のレントゲン撮影機が来ていたが、4階に戻ると自分で地下まで撮りにいくようになった。
 毎日撮るのは胸のレントゲンだが、4階に戻った頃、造影剤を飲んで,腸のレントゲンを撮った。造影剤は透明な液で、ちょっと舌がしびれるような苦みに、無理につけたような甘みがあった。バリウムは便秘になるが、造影剤は逆に下痢気味になる。
  胃のレントゲンと同じような感じで、台に立ち、機械と機械の間にはさまる。撮影を始めてしばらくすると、すごく気持ちが悪くなってきた。M先生に「気持ちが悪い」と伝えたが、「もうちょっと我慢して」と言われる。そのうち、頭の中で音楽が鳴り出して、ふうっと楽になった。
 と、思ったら、立っていたはずのレントゲン台の上に座り込んでいる。M先生と看護婦さんが顔をのぞき込んでいた。脳貧血を起こして気を失ってしまったらしい。倒れる直前まで、機械の間にぴったりはさまっていたはずなのに、顎もどこもぶつけていない。どうやってすり抜けたのか、VTRがあったら、見てみたい。
 結局、病室には車椅子で帰り、以後検査に行くときには、助手さんが車椅子で連れていってくれるようになった。 

   熱も下がらないまま、のんきに過ごしていた頃、院長回診があった。ぐるりと取り巻いた医師たちの中で、院長がM先生を叱責した。何についてかはわからないが、「だめじゃないか」という強い言葉が耳に残っている。それから、胃の他に脾臓も摘出したということが、話に出た。
 回診が終わって一人になってから、ふと気づいた。おとといより昨日、昨日より今日のほうが力が抜けている。きっと明日はもっと。 それから、自分の家の様子が目に浮かんだ。道路の向こう側から門を斜めに見るような角度で、うちの塀とポスト、それから電柱、そんな風景が浮かんできた。
 そして、「どうしてうちに帰れるなんて思ったりしたんだろう」そう思った。
 その頃までに、「どうやら自分の寿命は、他の人よりもかなり短くなりそうだ」という覚悟はできていた。(当時は、ね)だが、それにしても、ともかく一度は家に帰り、それから、転移なり再発なりの道順をたどってからの話だと思っていたのだ。だが、このまま、この病院にはいったまま、死んでしまう可能性もあると、気づいたのだ。
 「死ぬ」ということより「このままうちに帰れない」ということの方が、恐怖だった。
そして、涙が止まらなくなった。のどが締め付けられるわけでも、しゃくり上げるわけでもなく、ただ、涙だけ後から後から出てくる。
 車椅子で、レントゲンを撮りに行くときも、ティッシュの箱を抱えて泣きながら行った。
 昼頃、M先生がやってきた。
脾臓もとったんですか?」
「そう。でも、それで泣いてるの?」
「ううん。朝、怖かったから」
「そうだね。ごめんね」
 M先生は、わたしの肩を押さえて、何度も、ごめんね、ごめんねと繰り返した。 
 自分がいつ泣きやんだのか覚えていない。面会時間になって、母がやってきたときにはもう落ち着いていて、いつも通り迎えられたと思う。

 それから、1日2日経って、廊下の向かい側の4人部屋に移ることになった。
 その頃、ようやくわたしの発熱がMRSAのせいだとわかり、ある意味で隔離されることになったのだ。
 今度同室になったのは、胃の手術をしたTさんと、以前消化器を手術し、腸閉塞で再入院しているAさんの二人だった。わたしは、窓際のベッドになり、隣は空いていた。
  さて、MRSAと、発熱の原因が分かったため、治療方法も決まった。
 はずされていた鎖骨の下の静脈点滴も、もう一度入れることになった。処置室で部分麻酔をし、それから緑色の布を胸にかぶせて、横になった。M先生がわたしにのしかかるようにして、再び管を入れた。全く痛くはなかったが、注射針に比べれば太い管を、無理矢理入れるのはあまり気持ちのいいものではない。
 これまでの栄養点滴の他に、MRSAの特効薬といわれる抗生物質の点滴の小瓶も、台にぶら下がる。
 また、直接おなかの中を消毒薬で洗うことにもなった。どうするのかというと、まだ、おなかの両脇に入りっぱなしになっている管に、細い管を差し込んで、注射器で消毒薬を注入するのだ。下にあてがった膿盆に、液が流れ出る。これまた、少しも痛くないが、ぐりぐりと管を押し込まれる感じが、気持ち悪い。矢ガモではないが、おなかに穴をあけたまま、結構生きられるものだ。
 こうして、熱も少しずつ下がっていった。熱が下がると、精神的にも肉体的にもかなり状態がよくなり、毎日点滴台を引っ張りながら散歩していた。
 ある時、大学時代の友人たちが見舞いに来た。手術後初めてのことだ。点滴を身体につないでいるわたしを見て、みな、一様に見てはいけないものを見た、という顔をする。

 わたしも入院当初、点滴をぶら下げて歩いている人を見て、「人間ああなったら終わりだな」と思ったのだ。点滴ぶらさげたって、歩いているのだから元気なのだが、そんなことまでは考えつかなかった。友人たちの顔を見て、久しぶりに「娑婆の感覚」を思い出した。

 熱が下がって、次にやってきた試練は、再開された食事だった。手術前は、癌があろうが毎日いっぱい食べていて、まさか食事が苦痛になる日が来ようとは思っていなかった。
 毎日看護婦さんが、どれくらい食べられたかを聞きに来るのだが、「三分の一」「いや、半分は食べたよ」などと母と言い合うことになってしまう。何とかしていっぱい食べたと思ってもらおうとするのだ。
 それに、食事がおいしくない。手術前はどれも皆おいしく食べられたし、文句を言う人をわがままだと内心思っていた。だが、病人の食事となったら、おいしい中にもおいしくなければならないと、そんなことにようやく気づいた。

 さて、先に退院していたMさんが、内科に再入院した。二度目の抗ガン剤の点滴を受けた後、非常に具合が悪くなり、そのまま入院したのだ。
 この後、しばしば内科にいるMさんの所へ遊びに行った。内科の人たちは皆、長い間入院していて、一年半とか二年とか、年単位の人もいるくらいだった。2ヶ月もいたらほとんど最長老になってしまう外科とはずいぶん異なっている。それでも雰囲気は明るく、ただ外科にない静かさがあった。
 ある時、二人で屋上まで散歩に行き、帰ってくると内科の婦長さんが待っていた。わたしが「散歩に行ってきました」と言っても、顔をこわばらせたままだ。散歩ぐらい行ってもいいじゃない、と不審だったが、今になって思えば、婦長はMさんの自殺を心配していたのだろう。また、わたしが最初の外泊日、サークルの見送りで帰宅が遅くなったとき、出迎えた両親の顔もかなりこわばっていた。つまり、わたしたちはそのようなことを心配されてしまう立場だったのだ。 

「わたし、卵巣もとったんだって」ある日、Mさんがぽつりと言った。
「ねえ、癌だとわかって泣いた?」そう聞くと、「癌だってだけじゃ、泣かなかった」そう答えた。どのような時に泣いたのかは、とうとう聞けずじまいだった。

   また、わたしたちの主治医は前述のように同じ人で、外科部長のN先生と、若いM先生の二人だった。お二人ともに非常によい先生で、病室に来たときには必ず腰を落ち着けて、病気のこと以外も話題にしてくれる先生方だった。
「N先生とM先生が主治医でよかったね、ふたりともとっても優しいし、丁寧だもの」
 ある時、そうMさんに言った。すると、Mさんはいつになくきっぱりした調子で、
「M先生はやさしいの、丁寧なのはN先生」
と言った。
M先生は若いだけに、どうしても雑なところがあったのだろうか。だが、そう言われても、わたしにはお二人の「丁寧さ」に差があるようには思えなかった。しかし、身体の弱ったMさんには、その微妙な差が、文字通り痛切に感じられたのかもしれない。感じ方の差が、そのままわたしたちの病状の差だった。

  「わたしね、ホスピスへ行きたいと思ってたんだ」
 そんなことをMさんが言ったことがあった。
 『癌患者のあこがれ:ホスピス』というようなタイトルの本があったと思うが、癌治療の最前線であるG病院は、死にゆくためにはあまりいい病院とは思われず、同じことならホスピスへ、とどうしても思ってしまうのだった。
 「思ってた」とMさんが過去形で言ったのは、結局、身体が弱ってしまってからでは、自分の意志を通すことも容易ではないからだった。
 入院しているうちに新学期、新学年となったので、母に履修手続きに行ってもらう。とりあえず、図書館司書と、社会教育主事の二つの資格単位は来年にまわし、今年は卒業単位を取りきることにする。卒論を出さずに留年する二年計画。

 入院してから2ヶ月以上すぎた、4月2 日、ゴールデンウイーク直前に、晴れて退院となった。
 叔母の車でうちに帰る。まだ、雛人形が飾ってあった。
   非常に散らかった部屋を見ると、このまま死ななくてよかったとしみじみ思う。

 本当の、本当の闘病生活は、退院後から始まった。入院中は点滴のおかげで全く減らなかった体重が、次第に減ってゆく。
 一月自宅療養して、6月から大学に行き始める。満員電車に乗る勇気はまだないため、二つ戻って始発電車に乗る。余裕を見るため、冬は日の出前にうちを出た。前期の間は、万一のため母が付いてきた。空き時間には、保健室で寝かしてもらった。
 家に帰ると玄関でへたり込むような日々だった。

退院後の日記

 7月27日 (土)
 乱雑な机の上や、色々と書いたものを読むと、本当に死ななくてよかったと思う。身の回りの整理がつくまでは死にたくない。もっとも、ずぼらなわたしだから、それでは永久に死ねないことになる。
 癌と言ったって、胃の所にできたのはもうとったのだから、今回の病気で死ぬことはないと思う。長生きするかもしれないし、若死にするかもしれないのは将来の計画が立てにくくて困る。もちろん、それは誰だってそうだが、意識しなければならないのと、そうでないのとは大いに違うと思う。
 そうはいっても、漱石ではないが「大病した割には大したことも考えなかった」退院してすぐ、『思い出すことなど』を読んだとき、思わずうなづいてしまった。
 大人なりたくないとおもったり、夭折にあこがれたりしたから病気になったのかなと思う。でも、志賀直哉だって夭折したかったのにおじいさんになったのだから、皮肉な神様が願いを叶えてくれたわけではないと思いたい。それに、本当は願ったともいえない。あこがれただけだ。病気というものはちっともロマンチックなものではない。つくづく実感した。

 9月4日(水)
 昨日は一月ぶりで病院へ行った。Mさんにあったのも一月ぶりだった。あんまり衰弱していて驚いた。一ヶ月前、尿の管がつけられていて、もしかしたらMさんは生ではなく、死の方へ向かっているのかもしれないと初めて思ったのだが、今回の方がもっとひどかった。すでに大部屋ではなく、個室に入っていて、頭の上にはつないではいないものの、酸素吸入の装置がおいてある。前には自力で起きあがれたし、普通に話せたのが、昨日は体の向きを変えるのもやっとで、ろくに話もできないようだった。細く開いた目からじっと見つめられると、自分が元気なのが申し訳なく思えてきて、実際よりも悪く自分の具合をはなした。
 Mさんが進行癌であるのはウスウス感じていた。けれど、わたしと比べては回復も遅く、苦しんではいても、ともかくも生に向かって進んでいるのだと思っていた。それが死に向かっているのかもしれないと思ったのが、この前あったときで、その死も遠いことではないかもしれないと思ったのが、昨日のことだった。従姉の人が席を外すのを、ほんの一時のことでもいやがっていた。
 でも、わたしはMさんのことを他人事だとおもうしかない。難病もののドラマを見るように思う方がいいのだ。だって、彼女の姿が自分の未来かもしれないなどと思ったら、どうして耐えられるだろうか。自分の姿であり得たかもしれないと思うと、慄然とする。  こういう時には、自分を無にしてすがれるカミを持つ人がうらやましい。  どうか、Mさんが元気になりますように。
 10月4日
 Mさんは死んだのだろうか。火曜日に病院に行ったとき、直接病室に行く勇気がなくて、ナースステーションに行って、「Mさんは……」と聞いたら、「Mさんはうちに帰ったのよ」と言われた。おそらく死にに帰ったのだろうと思う。それもけっこう前のことらしいから、もうこの世にはいないのだろう。それでもはっきり聞いたわけでもなく、ただ視界から去ってしまったにすぎない。だから、わたしは今でも「Mさんは死んだのだろうか」と思わずにはいられない。
 けれど、話を聞いたとき、すこしほっとしたのも確かだ。死ぬ前に家へ帰してもらえるとわかったからだ。(今となってはその確証はない。単に、死んだということを言い換えただけだったのかもしれない)熱が下がらなくてはじめて本当に死ぬかもしれないと思ったとき、思ったのは、「このまま病院から一歩も出られずに死ぬのかしら?」ということだった。その時も「死ぬ」という所より、「病院から一歩も出られずに」という方に力が込められていた。もちろん、それはまだ本当には死を意識していなかったからかもしれないけれど。でも、Mさんが病院のベッドで死んでのではないと思うと、少しだけうれしい。
 けれど、わたしは苦しみを同じくしているただ一人の友人を失ってしまったのだ。
 Mさんはどこに帰ったのだろう。どこに還ったのだろう。どこにかえったのか。それにしても、Mさんは本当に死んでしまったのかしら。

 うまれてくるたて
 こんどはこたにわりやのことばかりで 
 くるしまなあよに うまれてくる

   Mさんは今どこにいるんだろう。

 11月6日 (水)
 二十二歳の誕生日。
 いつまでの命とも知らず
 毎日をおくるは 他人(ひと)とたごうなけれど

 顔色のわろしと ひとに告げられて
 鏡の中に 死の影をさがす

平成4年 1992
 1月24日 
 今年のお正月は病院で迎えた。12月の15日から房総へ行って、おなかを痛くしてしまい、19日に入院、翌1月4日に退院した。 制ガン剤のせいで身体が弱くなっているところに、疲れがたまって炎症を起こしたらしい。熱がなんと40度ちかくも出た。馬鹿になってしまうのではないかと真剣に思った。馬鹿になったり、気が狂ってしまったりしたら「今のわたし」はどこへ行ってしまうのだろう。
 N先生は偉くなって患者を持たなくなってしまったし、M先生は名古屋へ帰ってしまったから、新しい主治医がついた。わたしはM先生のことがとても好きだったので、すごく残念だ。あんないい先生はめったにいないと思う。M先生はMさんが死んだことを知っていたのかなと思った。知らなければいいとも思った。
 再入院というのは不吉な気がしていやだった。Mさんのように出られなくなるではないかと思った。もちろんちゃんと出てこられたけど。

 2月2日(日)
 今朝4時過ぎ、大きな地震があった。布団をかぶって震えていた。結局、災害で死ぬのかしらと思った。
 死は近づいたり、遠ざかったりする。誕生日のうたは暗いものだけれど、その頃わたしは、自分がひょっとしたら死に向かっているのではないかしらと思ってしまっていた。保険の先生がわたしの顔をじっと見て、顔色が悪いと言ったこと。そして、久しぶりにあった院長先生が、わたしを見て「痛ましげな」としか言いようのない表情を浮かべたことなどが、わたしの気持ちを暗くした。きざな言い方をすれば、わたしは他人の目の中に自分の死の影を見てしまったのだ。そして、今度はそれを自分の顔の中にさがさずにはいられなくなる。
 Mさんも、わたしの顔に自分の死を見たのかしら?導尿管をつけられたMさんを見て、わたしは思わず涙ぐんでしまった。まぎらわしたつもりであったけれど、気づいていたと思う。同情心にあふれた友人よりも、無神経な人の方がこういうときにはいいのかもしれない。
 Mさんの死以来、わたしにとっての死のイメージはこうなった。
 もはや目を開く力もなくなったというように、半ば開かれ半ば閉じられた目。その中の黒々とした瞳。それが、わたしを見つめている。かつては自分と同じく苦しみ、自分よりも元気がなかったときもあったのに、ともかくも普通に日常生活を送っているわたし。  Mさんの目は一つの記号になってしまった。
 いつか、わたしは衰弱しきって横たわり、誰か、命の力に満ちている人を、見つめるしかなくなる。
 その日が、可能な限り遠くになりますように。

 気持ちの沈んでいた秋のころ、よく夜中、1時半ごろに目が覚めた。トイレに行ってまた寝るのだが、だんだん怖くなって、「草木も眠るウシミツ時って、たしか2時だったよなあ」などと思った。そして、ついには「Mさん呼ばないで、おじいちゃん(幼稚園のころ胃ガンで亡くなった)わたしを呼ばないで」と心の中で言った。大切な人を悪霊にしてしまう自分の心が恥ずかしい。
 Mさんが死んだとき、わたしは、わたしたちを引き合わせた先生方を思わす恨んでしまった。Mさんの友人として最低の裏切りだ。もし、わたしが死んだとして、両親が「どうせ早く亡くしてしまう娘なら、生まれてこなければよかった」などと思ったとしたらどうだろう!

 暗いことばかり書いたけれど、近頃わたしは気分も、調子もいいのだ。


 2月22日 (土)
 おなかが痛くなってから、ちょうど一年経った。なにげなく一年生き延びたという感じ。こうして5年経てば、ひとまず完治ということになる。
 けれど、この間のMRIで、卵巣膿腫を発見されてしまった。悪性ではないのでしばらく様子を見るらしいが、あまり大きくなったら手術をしなければならない。また、親を泣かせてしまった。
 月一回の制ガン剤の注射はもうしなくてもよくなった。カプセルはまだ飲む。  13,14日にサークルの一泊旅行へ行ってきた。ポピーをいっぱい摘んだ。足手まといになることもなかった。
 こうして小さな喜びを重ねてゆこう。

 3月26日 (木)
 この間の土曜日は卒コンだった。OBの先輩方もいっぱい来てくれた。わたしは卒業もしないのに、いっぱいプレゼントをもらってしまった。わたしも本当はスーツぐらい着ていきたかったけれど、その週はずっと医者へ行っていて疲れたのでやめた。
 卵巣の腫れが悪性のものになったのではないか、というので超音波をやって、CTをやって、もう一度超音波をやって、やっと心配なしとなった。胃からの転移が疑われていたらしい。心配なしになったのは18日で、手術からちょう一年。二重にうれしい。
 卒コンの方は5次会、朝までつきあった。朝までいると告げたときの母の声はさすがに険しかったけれど、親不孝も生きていればこそと勝手に思って許してもらった。
 S君とK君という一年生が、(卒業生の)A君にさんざん酒を勧めたあげく、自分たちが沈没してしまった。トイレに行っては何べんも吐いている。ついMさんのことを思い出した。食後の粉薬を飲んで何度も吐いているのを見たことがある。一見、わたしの消化薬と似ていたが、何か違うところがあるらしく、飲んで10分も経たぬうちに、ゲエゲエやり始めた。もちろん、おなかの中には何も入っていないから、ゲエーっとやるだけで何も出てはこない。わたしは、たった一包の粉薬に何でこんな力があるのか不思議だった。彼女の吐き方にくらべたら、S君たちのはなんて愚かで幸せなんだろう。
 もっとも、こんなことばかり考えていたのではなく、ちゃんと楽しんだ。

 8月22日 (土)
 5ヶ月ぶりに婦人科へ行ったら、卵巣のはれがなくなっているとのこと。ガン細胞も出ていない。本当によかった。
 実はエコーの時、脇からのぞいていたら、膀胱が丸くなくゆがんで見えたので、これはてっきり手術だと、覚悟を決めていったのだ。ところが、結果は白。これでまた少し生きられる自信が出てきた。

1993年 2月2日
 胃癌についての専門書を立ち読みしたら、スキルスの所に5年生存率0から20%と書いてあって、すこし考えてしまった。0%とは何だろう。
 しかし、1%しか生存率がなくても、わたしは必ずその1%に入ってみせる。

 3月7日 (日)
 今、おひなさまが飾ってある。飾るのもしまうのも大がかりなので、昔は何年かおきになってしまっていたが、ここ3年はちゃんと毎年飾っている。いつ見納めになるかわからないと言う意識が、母にもわたしにも(口には出さないが)あるからだろう。
 わたしが入院した2年前、入院してすぐ一時帰宅した3月初めから、退院する4月のおわりまで人形は飾ってあった。あの時こそ、両親はこれが見納めかと思いながら、人形を出したのだろう。

 3月20日 (土)
 今日は卒業式だった。ご多聞にもれず、袴着用。
 式中も、その後もとくに感激はなかった。大学は来たければいつでも来られるし、授業だって聞きたければ潜り込むのは簡単だ。
 しかし、もう5年経ったのかなあとは思う。よくぞここまで生きられた、とはあまり思わなかった。
 手術をして、丸2年経った。昨年は指折り数えてようやっと、という思いだったけれど、ことしは母に指摘されて、あれ?そうだったけね、という感じ。喉元すぎればなんとやら、とはこのことだ。

 3月25日 (木)
 この前、祖母のお見舞いに行った時(膠原病で入院中)、同室の若い女の人がいなかったのでどうしたのかと思ったら、死んでしまったのだそうだ。結婚して子供もいる人とはいえ、同い年だそうなのに。糖尿病。(その後聞いたところでは、自殺だったという。  この前見かけたときにはとても元気そうだったのに。つくづく、ぽっくり行く病気はいやだと思う。本人も家族も、覚悟がないまま不意打ちを食らわされる。
 わたしの理想の死に方は、高血圧で、一杯やって熱いお風呂にでも入って、バタンと逝くことだった。
 でも、癌にかかってから、その考えが変わった。いきなり明日が奪われるのはいやだし、死に直面するのは何よりも得難い貴重な体験だ。軽い言い方をすれば、これをのがす「て」はないと思う。もちろん、本当に死に向かってい進むしかないときにもそう言いきれるかはわからないけれど。
 もう一ついやなのは、うつる病気だ。病気と言うだけでも重荷なのに、その上、他人にうつさないようにする気配りや、世間に対する負い目までしょいこむとしたら、どんなにつらいだろう。
 こうして考えると、癌はけっしてよい病気ではないけれども、最悪の病気でもないと思う。

 5月3日 (月)
 先々週の土曜日から祖母の具合がとても悪い。心筋梗塞を起こして、それから一週間、いつ死んでもおかしくない状態。祖母の生命力に感心し、感動する。
 我ながらこんなにも迷信深かったのかと思うほど、色々なおまじないをした。
 心にもう、毒を持たないと誓い、ガテマラの心配人形(3年前花博で買った)に心配事を吸わせて、あさ庭に埋め、長寿をことほぐうたをとなえ、寝る前に般若心経をとなえ、チョコレート断ちをしている。(ずっと続ける自信はない)
    しかし、昨日二日ぶりに病院へ行って、すっかりやせて骨と皮ばかりになり、呼吸をするのすら大仕事になっている祖母を見たら、これ以上生きていてほしいとは願えなくなってしまった。わたしならばこんな状態でいるのはいやだ。
 自分が病気になってから、死にゆく人はみな、自分の未来の姿だとしか思えなくなってしまった。わたしはああなったなら、いつまでも機械につないでおかず、たとえ死ぬためだけであっても、家に帰してほしい。

 5月10日 (月)
 昨日の母の日に、お祖母ちゃんが亡くなった。6日に身体の方はよくなったと言われ、7日には普通の病室に帰ってきて、希望が出てきた矢先だった。痰を取るため、何度も鼻から管を出し入れしていたため、傷が付いて、そこから出た血が肺に入って炎症を起こしたのだそうだ。直接の死因は、嚥下性肺炎。すっとわずらっていた病気は、多発性筋炎だった。
 朝10:57
 知らせが入って病室に駆けつけると、(延命措置のため)胸をはだけられたお祖母ちゃんがもう死んでいた。とてもいやだと思った。死ぬときはきちんとした姿で死にたい。  ゆうべは、鼻の管や、酸素マスクでやっと生かされている自分の未来が浮かんで来て、こわくて、こわくて、こわくて、少し泣いてしまった。
 やっぱり尊厳死についての文書を今のうちに作っておこうと思った。もちろん、まだ10年や20年、死ぬつもりはないが、そうなってからでは遅いことは、Mさんのことでも、お祖母ちゃんのことでも身にしみた。
 J医大霊安室は、G病院とはちがって、明るくてきれいだったけど、祭壇があって、「O医療センター物故者霊位」という白木の位牌がおいてある。上では医者だ薬だとやっているのに、ちゃんとこんなものを用意してあるんだと思うと、変な感じだった。

  7月15日
 わたしのこれまでの関心はもっぱら、自分の内面にあった。外のことは、どれだけ自分の内面つまり空想のたしになるか、と言う捉え方をしてきた。旅行をしても、本を読んでもつまりは同じだと思う。だから、それが外面に関わることなら、自分の病気や、死に関わることでもかなり平静でいられた。この私である精神さえ無事でいられたら、それ以外のことは好奇心を持ってすれば耐えられぬことは無いと思う。
 たとえば、婦人科で再手術かと言われたときでも、私が見た夢は、「先生、前の手術の時にはコンタクトをはずしていて手術室がよく見えなかったので、今度は手術が始まるまで、眼鏡をかけていてもいいですか」と聞くというものだった。この夢の後、わたしは、この好奇心がある限り私は大丈夫だろうと思ったのだった。
 昔、徹子の部屋で、ある女優が、「私、あの世ってどんなところだか、楽しみで仕方がないの」と言っていた。その人は末期癌で、その番組はその人の追悼だった。その時には、あれはやせ我慢だろうと思っていた。全くの嘘とは思わないが、楽しみと言い切れるものでも無かろうと思ったのだった。しかし、自分自身のこの夢で、ああ、こういうこともあるのだろうな、と思うようになった。そして、病気の苦しみは苦しみとしても、未知のことに対する好奇心さえあれば最後の時まで、あるいは楽しみを見いだせるのではないか。
 だから、私はたいていのことには驚かない人間だと思っていた。
  (この後、知り合いの女性がストーカーであったことを知った驚きが記されている。) 

 私は、心底怖くなったのだが、今でも、~さんは怖くない。会ったって、立ち話ぐらい平気で出来る。私が怖いのは、結局この自分、自分の精神が、今の私でなくなることなんだ。そう分かった。この「わたし」さえ無事なら、肉体の死もそれほどこわくない。生まれ変わりとか来世の話ではなく、死ぬまで自分であり続けられたらそれでいい。別に、理性的な私、でなくてもかまわない。死にたくないと泣くのも、わたしであろうし、苦しいというのも、他人に当たり散らすのもわたしであろう。ただ、そうなると、狂気との境をどこに置くかだが。とにかく、今自分が私だと思っている存在が、その死まで続いてくれたらそれでいい。

8月23日 
 皮膚科の古江先生から、血液検査で、「赤血球奇形、血小板大小不同」等が出ているが、自分では分からないのでG病院で見てもらうようにといわれた。ちょうど6ヶ月の検診の時期であったこともあり、すぐG病院に行き、N先生にそのことを話した。胃を切ったせいだろうと、先生はあまり気にしていないようだったが、ともかく化学療法科の先生に紹介状を書いてくれた。化学療法科のA先生も、あまり心配はいらないが一応検査はしましょう、と言う感じで骨髄の検査をした。腰の骨に針を刺して骨髄液を採るのだ。
 しかし、針を差しても、骨髄液は取れなかったようだ。先生が首をかしげながら、ピストンを押すのをはっきりと見た。それから、診察は真剣なものになって、首のリンパ腺をさわったり、前の治療の時放射線をかけたかを聞いてきたりした。わたしの前に骨髄液を採ったおばあさんがすぐに済んでしまったのとは対照的だった。
 ともかく、結論は出ていない。結果は九月の十日に聞きに行く。本当に悪いものだったら、前のようにすぐ入院準備ということもあるだろう。でも、楽観もできない。5年前よりもずっと動揺している。5年前よりも色々な事を見て、知りすぎたと思う。Mさんや祖母の末期を見てしまったし、「勉強」もしてしまった。もし、骨髄そのものが悪いとしたら、どうなるのか。移植なのか。
 全てがおかしな早合点だといい。でも、人は確かに死ぬのだ。Sさん(中学の同級生)もわたしよりも後に癌を患って、死んでしまった。高校の時同級生だった人のお姉さんも、まだ19歳だったのに死んでしまった。わたし一人が、死なずに済むわけはない。わたしだって、確実に死ぬのだ。でも、それが今なのか。わたしは死にたくない。
 5年前とは比較にならないほど、痛切にそう思う。少しは書くことも分かってきたようなのに。もっと旅行をしたい。色々な本も読みたい。もっと色々なことを知りたい。
 友人たちが、恋を得て、結婚について考えているとき、わたしは自分が死にかけているのか、どうかを考えている。なんて不公平なんだろうと思う。でも、人生なんて不公平なものだ。世間にはいくらでも、なんのために生まれてきたのかと思うような人たちがいる。死ぬためにだけ生まれたのかというような子供たちもいる。わたしはしあわせだ。何より、色々なところへ行って、たくさんのものを見た。
 もちろん、病気と決まった訳ではない。病気であっても悪いものでは無いかもしれないし、悪いものであったとしても、打つ手が無いわけでもなかろう。5年も前に、わたしは、5年生存率0から20パーセントという数字に、必ずその中に入って見せると日記に書いた。その決意をもう一度繰り返すだけだ。輸血しか生きる道がないなら、他人から血をもらい続けてでも生きて行こう。21の娘に耐えられたことが、26の人間に耐えられぬ訳はない。
 でも、実際は、長く生きるほどに別れはつらいものなのか。ふと、こうして気をもむことに疲れた、という気が起きる。でも、少なくとも、過去の自分に笑われることだけはすまいと思う。
 結局は、笑い話になるかもしれないのだ。
前に書いたものを読み返して、あまりの勇ましさにおかしくなる。結局喉元過ぎれば、だったのか。しかし、今回も、最初の骨髄検査までは怖さ半分好奇心半分で面白がっていたのだ。
 結局この私には、好奇心と空想力しかないのだから、どこまでそれでがんばれるか。静かに落ち着いて心をそらして、楽しいことを考えよう。真正面から向き合おうとすればつぶされてしまうかも知れないが、前と同じ作戦、心をそらして他の事を考えるのだ。どうせ、真実は少しずつ染み込んで行くのだから。

8月29日 
 事態は少しも好転していないのだが、わたしの精神だけはすっかり落ち着いている。何より身体の状態が良いことと、外科に行ったとき中島先生が別に心配していなかったことだ。ただ単に、化学療法科の検査結果が全く出ていなかったこともあるけれど。こうして書いていても、この前感じたようなしんしんとした恐怖は感じない。
 骨髄液が出なかったのは確かだし、先生が真剣だったのも確かだ。でも、10日までは気にするのはやめよう。OB会の約束だってしたし、3月には二つも結婚式があるのだから。

 9月9日
 いよいよと言うべきか、明日結果を聞きに行く。ときどき恐ろしくはなるが、今日一日も比較的平静であった。体の調子はいい。風邪気味になったりはするが、いわゆる貧血の症状というのは立ちくらみをのぞいて全く現れていない。
 もし、わたしが例えば骨髄異形成症候群だったとして、(いろいろみたが、悪いとしたらそれでは無いかと思う)治療法は骨髄移植だという。だが、今わたしに全く不都合なところはないし、元気だ。この病気は「いつまでたっても進行せず普通の生活をおくれる場合も多い」という。それならばほおって置くのか。しかし、前白血病とも言われる病気だ。そのとき、白血病に進む可能性はどれほどあるのか。そうなったら、いよいよ骨髄移植しかないのか。また、予防的に骨髄移植をすることもあるのか。そのとき、MRSAに感染しているとか、アレルギー体質であるとか言うのはどれほどリスクを高めるのか。  もちろんこんなことは全て悪い推測、いい結果かもしれない。明日の今頃は、天国にいるのか、地獄にいるのか。

 9月11日
 結局ただの鉄欠乏性貧血だった。骨髄移植まで考えたことを思うとなんだかおかしいが、あのときはいよいよもうだめかと覚悟を決めたのだ。あまりの悲壮な文章に恥ずかしくなるが、これも貴重な記録として消さずにとっておこうと思う。なにしろ、わたしにしてはこまめに書いたのも、もし杞憂だとしても創作のたしにもなるかという下心もあってのことだったのだ。なにしろ本気で生きるか死ぬかという経験はなかなかできるものでもないし、また、したいものでもないからだ。
 結局、骨髄液が採れなかったのは針が届かなかったせいなのだろうか。聞きたいとは思ったが、訊けなかった。まあ、今度のことは五年を過ぎて少し油断しそうになったから、気を引き締めるためには良かったのだろう。
 ただ、今度のことでいよいよわたしの遺伝子なんぞ残さない方が世のためだな、と思った。どこかおかしくなったというとき、思い当たることが多すぎる。抗ガン剤、数え切れないほど撮ったレントゲン、他の様々な薬、そもそもの体質。まったく、わたしの身体はポンコツだなあ、としみじみ思う。

 

後書き


 術後7年半以降のことを簡単に。

   日記の最後は、悲観的な言葉で終わっていますが、その後は、2002年に肺炎で入院したほかは基本的には順調に来ています。

 最大の変化は、2006年に結婚したことです。
 30歳代後半まで結婚しなかったのは、もちろん、この病気のこともありますが、それよりもやはり自分の性格、一人で好きなことをするのが好きだった、というのが最大の理由です。
 子どもは今に至るもいないのですが、夫はかなりほしがっていて、わたしもいろいろためらいはあるものの、いろいろな不安に希望が勝つ形で、子どもを望む気持ちがありました。けれど、積極的な不妊治療(人工・体外受精とか)まですることはためらわれ、結局していません。
 この先どうなるかはわかりませんが、1998年からこれまでに気持ちの変化があったことは書いておいた方がいいと思いました。

 体の不調としては、胆石が多数あり、時折、鈍痛に悩まされること。低血糖発作がたまにあること。食後は反対に高血糖になりがちで、気持ちのいい満腹感がほとんどなくなってしまったこと。また、何かの拍子につかえると、その後は水一滴入らなくなり、最後は吐くしかなくなってしまうときがあること。
 それから、最近の最大の悩みは逆流です。就寝時に膵液や胆汁が逆流して、それが少しでも気管の方にいくと、2、3時間後に熱が出ます。38度以上になることもあり、仕事があるときなど辛いです。炎症を起こすほど誤嚥するわけではないので、体が過敏に反応する習慣ができてしまったのだと思います。
 ただこれも、腹筋や背筋を鍛えることで、睡眠時の姿勢を保てるようになったせいか、最近はやや起こりにくくなっています。

 以上のような不調はありますが、基本的には普通の人とほとんど変わらない生活を送っています。
 お酒も飲みますし、泥酔したことも記憶をなくしてこともあります。(だけどこれは本当に危ない。泥酔状態で低血糖発作を起こしたら、死ぬかも知れない)
 外国旅行にもどんどん行っています。一人で2、3週間ほどイギリスを回るのを何回かしましたし、結婚後もアメリカドライブ旅行などかなりハードにやっています。
 不思議なことに、なんでも食べるのですが、食中毒になったことがありません。油が多いと下痢をしてしまうことはあるのですが、生ものはこれまでのところなんでも大丈夫です。殺菌効果のある胃酸がないことを考えると、これは自分でも不思議です。

   あと、2年すれば、胃のある人生と胃のない人生が同じ長さになり、やがて逆転します。病気には、ならずに済むものならならない方がもちろんいいですが、なったからと言って人生はすぐには終わりません。

 

 

2012年追記
今年の3月に、ついに胃のある人生と胃のない人生の長さが逆転しました。最初の21年間のうち、物心がつかない幼少期がかなりの長さを占めることを思えば、完全に胃のない人生こそ自分の人生と言えると思います。 そして、2011年11月に、ついに胆石のため胆嚢を摘出しました。これで、私の身体に欠けている臓器は胃、脾臓、胆嚢の3つになりました。それでも無事に生きております。

 

2013年追記
 この2年ほど貧血がひどくなり、鉄の注射をしている時はいいのですが、やめるとすぐ貧血になってしまうようになりました。それ以前は、薬を飲まなくても正常値の下限あたりだったのですが。。。。子宮筋腫のせいだろうということになり手術も検討したのですが、最大8センチという大きさと数、それに胃癌手術時、転移の有無を見るために下腹部近くまでメスをいれているための癒着、以上の要因で手術不能ということになりました。現在ホルモン剤で偽閉経状態にもっていくという治療をしています。
 結局、子供とは縁のない人生になるようです。
 とはいえ、昨年は1か月のヨーロッパ旅行という10年に一度の大行事も無事にこなし、やはりほどほど元気に生きております。


 この闘病記が、どなたかかの希望につながったら、こんなうれしいことはありません。